
失う恐怖を全部捨てられるんだ
ここにきみがいるのなら。
亡くしたものすら背負えるんだ
ここにきみがいたのなら。
いたい、こわい、なみだ、けもの、きょうふ、こどく
忌むべきものは続くだろう、僕らは成す術もなくいくだろう。
それで、どうして、なぜ、どこ、もういやよ、なんも
否と不条理は続くだろう、僕らがおとす真っ暗な影のなかで。
でも僕らは止まれないままだろう。
そう僕らはたぶん選べないんだろう。
たぶん理由は儚きもの
たぶん意味なんてないね
くりかえしながらいくだろう、たくさんの不透明と僕らのほんとうとを。
でも僕は止めたくないと思うんだ
僕はいま閉じたくないと思うんだ
その理由は相変わらずわからない
でも、ただ今、ここにいるのなら
そう、ただ君がここにいるだけで
いたい、それで、こわい、なぜ、なみだ、どこ、けもの、きょうふ、もういやよ、こどくの何も無し。
ねえ、それでも生ける気がするんだよ
無数のそれらにたったひとつきりの
ここにいるのなら
無数の先の中、たったひとつきりの
きみがいるのなら。――――
―――幼かった日、夏の終わり、頻繁に急な夕立があった。雷が真っ青だった空と真っ白な雲とを荒々しく轢きちぎると、世界が灰色に染まった。凶器の様な雨粒は直撃すれば刺さりそうな勢いで一斉に落ちてくる。頻度を増していく雷鳴と光、激しく落下してくる雨、それは何か絶望的に恐ろしく得体の知れない何かを連れてくるようだった。または、追い詰めた非力な獲物に少しずつにじり寄る、餓えて殺気だった狼の様にも思えた。
一人で留守番をしていた夕立の始まりにはいつもそんな逃げ場の無い恐怖に、心身全体が包まれた。
恐くて、恐くて、死んでしまいそうに。その感覚は容赦なく時に残酷であって、またそんな一片を垣間見せる無垢な子供みたいに、どこまでもどこまでも残酷なまでに無限な透明さでもあった。
――――――――目が覚めたら汗だくになっていた。・・・違った。ベランダに面した窓の、すぐ下の床上で転寝をしていた為に、網戸越しに吹き込んで来た突発的な激しい夕立のせいで顔面と上半身がずぶ濡れになっていただけだった。透子はむくりと起き上がり、全身に走った鈍い痛みに顔をしかめた。
床上に何も敷かずに眠りこんでしまった事を激しく後悔した。身体の方々がビリビリと痛い。
2、3日前からなんとなく面倒くさくて繰り返し使用しているタオルは雑巾みたいにヨレヨレに疲れきっていたが、構わず這う様にして椅子から落ちたそれを拾い上げ頭や顔を拭きながら窓の外を眺めた。
何時間くらい眠ったのだろう。ずいぶん前に電池の切れてしまった小洒落た掛け時計は、相変わらず本人の死亡時刻であったのだろう8時40分を示して沈黙している。唐突な夕立のおかげで尚も薄暗くなった室内で透子は頭にタオルを乗せたままペタリと床に座った。外界を四角く切り取った窓の中では雷が灰の空を割って激しい雨風を乱射している。窓に叩きつけられた雨の亡骸がいくつも折り重なり、あっという間に滝の様に流れ出していく。しばらくそんな光景を無心で眺めた。
ずっと昔の様に、混じりけの無い透明度の高い感情、「死にそう!って感じの漠然とした、ただ単純に、こわい!」というのであろうか、とにかくそんな感じの素直な感情は湧かない。幼い頃は一人きりで見る窓の外の嵐がそんな風に、ひどくひどく怖かったのに。今ではそんなストレートな「こわい!」という感情はおろか、喜びとか、悲しみとか、嬉しいとか、幸せとか・・・そういうストレートな感情全部が「こわい!」というのと同じように灰色に鈍っている。
24歳にもなったのだからそれくらい当たり前なのかもしれない。しかし成長による理性の構築や経験の積み重ねによって色んな事に対して粗方の免疫が出来て強くなったというのとはまた別に、何かもっと単純かつ透明で、元々備わっていた自然な何かが薄まっていってきている。そしてその上に灰色に濁っている、不透明で分厚くて重たくて、拭いきれないモンがだんだん覆いかぶさっていく。蓄積していく。その不透明なモンは、まるで身体に走る鈍い痛みがなかなかとれずにドロリと神経を侵食して停滞しているようで、これといったはっきりした根源がわからないタチの悪い不快さであって。
最後に人と話をしたのはいつだっただろう、・・・確か、4日前、いや、会話をした訳ではないな。
久々に電源を入れた携帯電話に残っていた留守電の声を一方的に聞いただけだ。今ではぼんやりとしたパーツ程度の顔の印象しか思い出せないが、数少ない知人の中の一人の声。それを聞いたのが最後だ。やべ、会話とかしてないや。
ほんの一月前にリサイクルショップのアルバイトの口を失ってから、今は自宅アパートから歩いて10分程にあるマンションの管理室で番をするという極めて地味な仕事をしている。勿論それだけでは生活が成り立たない為、週に一度だけ知人が勤めるショットバーで時給を頂戴している訳だが、その店自体も自宅から徒歩20分圏内である。ほぼアパートとマンションの管理室との往復生活、時々遠征。単純な動作の連続。教え込めば猿でも出来そうだ。
そう、可能な限り、外部と、人間と関わらずに生活を成り立たせる方法を模索した結果、そうなったのだ。
面倒だった。出来ないのだと、そう思ったのだ。
それらと関係を構築し、継続していく事が。暗中模索しながら、一喜一憂しながら、自己嫌悪と勘違いと腹の探りあいのちくちく、仮面みたいに笑う事、知りたくもない事を知っていく事、何もかもの一つ一つが。
それは些細な事、当たり前の事のはずなのに、とにかくえらくしんどいのだ。
当たり前の事がえらくしんどいっつうのはかなり辛い。
そんなわけのわからない事実自体にすら途方に暮れてしまう様な非力な自分にですらしんどくなってくる。
例えば酸素を吸って二酸化炭素を吐くとういう当たり前の、基本中の基本の動作ですらに、冗談抜きよで息切れするみたいなものなのかも。
最低限のそれにすら息切れして、途方に暮れてしまったら後にはどんな可能性があるというのだろう。どんな、なにがあるというのだろう。ここに、この私に。
拭えない不快指数はマックスで。そんな絶望感や無力感が混沌と降り積もり、そしてまた非力にも情けなく途方に暮れる。その繰り返しだ。
一体何故こんなにもしんどいのかよくわからないし、よくわからないのにしんどいと言うのは、ああ、そりゃもう本当にやりきれなくて情けなくて、また途方に暮れる。って、さっきもやったかこの反復思考。
絶望と無力を絶え間なく掘り下げていくのだ。
陸一つ無い夜の海に一人きりでぷかぷか漂っているみたい。しかもいつまでたっても夜が明けない。あー!夜が明けない!こんちくしょう!
鋭敏で素直だった感覚が薄れていく。空けない夜という眼前の現実から逃げるように、その絶望からこの身を防衛するように。
外部と作用し合う事が、とにかくしんどくて、痛くてよくわかんなくてたまらない。
だから保守しようとする。するとどんどん視界も感覚も歪曲していく。
もし・・・、まっすぐに突っ込んでいけば無傷では済まないと知っているからそうするのだが、
それらの繰り返しの痛みと、その度に鎮静剤を打つ様な無意味な防衛。そのうちに外部との交わりや関わりがまるで骨折り損のくたびれもうけみたいに思えてきてしまう。くりかえすだけのそれらにただ疲労しか得られずにいるからだ。無論、当たり前の事だから、誰のせいでも何のせいでもないのだけれど。だからこそ、垂れ込めるしんどさをどう処理する事も出来ず、途方に暮れるしかないのだ。
そしていつからか、一体なんでこんなにしんどい事を、ただ繰り返してしまうんだろうって、そう思ったのだ。
だからそれらを破棄した。ただ必要の無いものを捨てただけだ。自分には無駄と思った事を、しんどいって思った事を省いた。どうにもならんよって事をどうにかするのを辞めただけ。
そうするとただ「生きている」という事実だけが残った。空っぽの容器みたいに、ただ在るだけの不動の事実が。
空っぽの容器は底が抜けていて、誰も皆、必死になって容器内を満たそうと色々なモノを詰める。
が、底が抜けているので一行に満たされる事はなく、ふわふわと灰色の疲労だけが満ちていく。
生きているって、死ぬまでの虚しい延命処置に過ぎない気がする。健気で儚くて、でも虚しい応急処置に過ぎない気がする。
リサイクルショップの求人募集への応募は、そんな無気力な期待から穿り出した動機だった。
一応は「販売・接客・女性歓迎」という名目ではあったのだが、実際の内容は透子の希望待遇をほぼ満たしていた。というのも、店で実際にやっていた事は「待機・読書・掃除・単純な社交辞令」くらいのものだったからだ。
店の佇まいは昭和の時代の商店の様な古めかしい造りの日本家屋で、全体的に埃っぽく、年季の入った入り口の木枠の引き戸は外部からの訪問者をお世辞にも歓迎しているとは言いがたい疲れきった老人の様な雰囲気を醸し出していた。当然来客はほとんど無く、店の位置も若者で賑わう古着屋や雑貨店、カフェやバーのあるメイン通りに面している訳ではなく、そこから少し細い私道に入ったマニアックな場所にあった。
わざわざ人が通らないような、忘れられた道の脇に。それに店内に並べられているリサイクル商品やアンティーク家具や照明器具も、街のメイン通りの8割を占める購買者である若者達が、お金を出してまで買おうなんて到底思わない様な、よくわからない価値がついていて、なんだか色気のないアンバランスな品々ばかりだった。極たまに、ちょっとお洒落で、レトロ趣味のお客が食いつきそうなレトロちっくなチェストやクラシカルな照明器具なんかが出現したりもするのだが、そういう商品はほぼ全てを、マニアックなアンティーク趣味を持つリサイクルショップのマスターの吉崎と言う未婚の中年男がそっと私物として店奥にしまいこんでしまう為、客寄せにすらなる暇もなく、殉職していった。
そんな訳でたいてい店には透子が一人か吉崎と二人きりしか人がいなかった。
来客がほぼ無いという事は透子にとっては大変好都合ではあったのだが、伴って収益もほぼ無いはずのこの店に何故アルバイトの店員を雇おうとしたのか、最初は些か疑問であったが、中年男の吉崎が溺愛している萌え系アイドルタレントの話や軽いセクハラ発言にさえ慣れてしまえば仕事は楽だったし、何かと人の出入りが激しい流行りのカフェや色鮮やかな日用品の並ぶ雑貨店でポニーテールなんぞしてニコニコ愛想を振りまきながら就業する事を思えば透子にとってはよっぽどベストな食い淵繋ぎであった。
しかし、そんな過も可も不可もないまあまあの予定調和と平和との日々は急に幕を閉じた。夏の夕刻を襲撃するゲリラ豪雨の様に。
透子がいつもの様に夕方近くにならないと現れない吉崎に変わって店を開け、正午過ぎだというのに薄暗い店内でオレンジ色の照明器具のぼんやりを見つめながら、何冊かレジ台に置きっぱなしにしてある文庫本に手を伸ばそうとした時、急に店の戸がガラリと開いた。予想外の来客に驚いて顔を上げると地味なスーツ姿の男が二人、店内に入って来ていた。
「あ・・・いらっしゃいませ」
久しぶりに発する接客用語に少々舌が支えた。男の一人が軽い会釈をしながら黒い何かを提示しながら言った。警察手帳だった。
「失礼、吉崎隆二さんのご親族の方ですか?」
「あ?・・・いえ、アルバイト・・・ですけど」完璧に不意をつかれていた透子は間抜けに応答した。
「そうでしたか、失礼しました。私共、○○警察の者です。唐突にすみません、実は・・・」
男は園田と名乗った。目が漫画かなんかで描いたみたいに見事に細くて、おだやかそうな印象だったが、そんな印象とは裏腹に伝えられた事実に透子は驚愕した。
吉崎が盗撮、及び迷惑防止条例、その他もろもろの容疑で連行されたらしい。
何でも今朝がた、通勤ラッシュの電車内で女子高生のスカートの中身を盗撮しているのを現行犯で捕まり、
その後の聴取によって、近隣の公園のトイレやスポーツジムのトイレ等に盗撮用のカメラを仕込んでいる事が発覚。撮影したテープや写真を大量に保管しているらしく、転売の事実もほのめかし始めたとの事で園田達が家宅捜索に来たという訳であった。
「とうさつ・・・ですか・・・。」透子が腑抜けた様に無表情で呟くと、園田はそんな反応の薄さに少し拍子抜けしていたがすぐに言葉を続けた。
「それでですね、その、申し上げにくいのですが、この店のトイレにもその、カメラが設置されているとの事で・・・。」
「・・・え?!」まるで現実離れした、○○サスペンスみたいな展開に置いていけぼりにされつつあった透子の意識が一気に現実に引き戻された。
「それ・・・本当ですか?」
透子が眉を顰めながら聞くと、園田は少々気の毒そうな顔をして
「はあ、まあ彼がそう自白していたもので・・・、詳しい事はまだ解っていませんが、最近近隣で発生している痴漢被害や幼女へのいたずらの件での容疑の疑いもありますし、諸々を含め調べさせて頂きたいのです。勿論押収しなければならない物もありますので、今日のところは店を閉めて頂けますか?」と淡々と言った。
「・・・わかり、ました」
透子が呆気にとられながらレジ台を立つと、園田ともう一人のスーツ姿の男はは気の毒そうに「お気持ちはお察しします。ご協力ありがとうございます」と一礼した。
園田達に店を預け、私物の文庫本をカーキ色の地味なリュックに詰めると、透子は追い出される様にして店を後にした。
その後、間もなく店は閉店。園田は逮捕された。執行猶予つきではあるが、痴漢、盗撮、その他諸々の卑猥な所業が出るわ出るわ。
店のトイレには案の定、盗撮用のカメラが仕込まれていた。店にはトイレが一つ。
謎は解けた。ピキーン。求人募集にあった台詞の一つ「女性歓迎」の本当の意味が解った。世田谷界隈にふらふらと蔓延っている若者、そう若い女をアルバイトで雇い、ちゃっかり自分のお膝元で手軽に盗撮を実行する為だったのだろう。
考えてみれば、明らかに少女を標的にした卑猥な犯罪を誘発せんばかりの萌え~な嗜好で、鼻息荒く「どこでそんなステータス情報仕入れたんですか」みたいなアイドルとかのマイナー情報まで鼻の下を伸ばしながら雄弁に語る変態なのだから、その容疑は納得できなくもない。
やたらと透子の男性関係の話を掘り下げたり(無論、完璧にスルーしていたが)、服装や身体を舐める様に見ていた吉崎だから、充分在り得るっちゃあ在りうる。
「・・・しんどい。人間マジしんどい。がつがつがつがつ。なんで?ってか、なんでそんなに他人に対して欲情するの?求めるの?期待するの?夢見ちゃうのよ?」
雨粒の亡骸の流れ行く様を目で追いながら、透子は思った。疲れる。人間は。とにかく疲れる。
関われば、重なり合えば、まるでそこから腐った膿の様に嘘とハッタリと厭らしい欲が流れ出てくる。
そのドロリとした厚ぼったいヘドロ状の膿に押しつぶされて呼吸は苦しくなってくる。
だから、しんどくない様に、リスクを最小限にする為に、疲れて呼吸困難になる危険のある重なりあった部分を最小限に抑えられる様なポジションでの食い淵を見つけたというのに、またかよ。
またなのかよ、まだなのかよ。
せせこましく隅っこの方で息を殺しながら、死ぬまでの延命処置みたいな「生」を騙し騙し続行しようとしている、みそっかすみたいなやつ、私みたいなのまでもが、そんな轍から逃げられない。
どうして?
どこまで続くの。この呼吸困難は。しんどいよ、もう・・・。
「嫌だな」透子は一人呟いた。
「嫌だ、嫌、いや。・・・やだやだやだやだやだぁぁ・・・」首から上でうなだれた。
幼い日に一人、嵐の最中に取り残された日の事。ただの留守番だったけどとても怖かった。忘れられない恐怖は今でも・・・。
急にどこかへトンズラした父の事。酒場で擦り切れながら働いて、帰宅してから薄暗い朝方まで酔いつぶれながら泣いていた母の事。光が見えなくなる程に厚みを帯びていった孤独と不安と細かな絶望感と対人不振の不安定の連続。
剥がれゆく雲母の様に擦れていく目をして、母が言っていた。
「透子、お母さんはいつまでも透子のそばに居られないかもしれないけど、透子はちゃんと一人で生きていける強い子にならないと駄目よ」
透子が15歳になったあくる日、母は死んだ。自殺した。酒場で知り合った男に酔わされたまま、共に心中し母だけが死んだ。酔いの醒めぬまま。車の中で発見された母は一酸化炭素中毒で、傷ひとつない遺体になっていた。車中でのガス自殺だった。母の死に顔はほのかなピンク色に染まった、なんとも言えない幸福そうな死に顔色だったという。ガス自殺特有の遺体状況だったみたいだ。
一方、男は一命を取り留めた。男は透子と母が暮らす借家にその後ほぼ入り浸っていて、退院後、透子が18歳になるまで透子と生活を共にした。意外にも透子に対しては優しく、良心的に接してくれた。形振り構わずまるで透子の為だけに働き、透子を惜しみなく愛し、そして必要なだけの色々を成り立たせてくれた。
透子は男を受け入れ始めていた。その男を好きだった。恋愛とかそういうんじゃなくて、単純に好きと思った。大切と思った。そして失いたくないと思った。事実上の父親ではなくとも、本当の父親の様に、自分の一番近くに居てくれる存在であったから、そして透子を好きといってくれたから。大切にしてくれたから。
しかし、男は透子が高校を卒業するまでの間、身を粉にして透子の面倒を見て、透子の傍に寄り添い、透子の信頼をたっぷり買い占めてから、透子が高校を卒業するとすぐ、あっさり首を吊って死んだ。
もしも万が一、母か男かのどちらかが生き残った場合、透子が辛うじて高校を卒業するまでの間、透子の面倒をみる確約でも交わしていたのだろうか。
男が愛していたのは母親だったんだろう。透子はそう思った。
透子は大切なんかじゃなかったんだ。透子じゃなかった。私は・・・どこよ。
男は、母親の娘である透子に、母親との命賭けの約束をくくりつけて、それを原動力として透子に尽くし、そして死んだ。自ら死んだ。最期の最後まで透子の為ではなく、透子の母の為に生きて死んだんだ。透子は、誰の中にも居なかった。
親も、誰もかれも結局は透子を見つけて見つめ続けなかった。たくさんなんていらない。たったひとつきりのそんな事実が欲しかった。たったひとつきりで構わないから。
捨てられた犬の様な笑みと味噌汁の上澄みみたいに味気ない優しさだけを遺して、透子以外の誰かの為に、いい訳みたいに透子を分厚く撫でながら、透子じゃない誰かの為に。
透子を理由にしながら、経過して消えるだけの理由と言い訳にしながら、透子の実体などだれもかれも認めないまま、見つめないまま、
皆、死んだ。見事に皆、消えていった。
「・・・。私だけのもんだ。誰にも触らせない。・・・失くすのは、嫌。・・・私は私だけのものでいいんだ」
ろくに衣装も揃えられず、なんとか押入れから発掘したそれなりのフォーマルな服装で迎えた成人式の日、透子はそう思ったのだった。
暫くして夕立があがった。ほとんど太陽を覆いつくした西の空が、ゆっくり瞼を閉じて、夜を誘い出していく。
透子は腰を浮かすのもおっくうな程、だるい身体で床を這いバスルームに向った。シャワーを浴び、ゆったりとしたボロいジーンズと灰色のキャミソールに着替えると、マルボロを一本加えて火を付けた。深呼吸をする様に深く煙を飲み内蔵全体にいきわたさせる様にしばらく息を止め、長く吐き出す。ぼんやりとした意識と眼前がやっとクリアになってくる。錆付いた夜型スイッチが気だるそうにONになった。しばらく目を閉じる。
身体がなんとかまともに動くようになり、やっとベランダに出たのは午後7時半すぎだった。比重の重いコールタールの夏の夜は藍色に世界を染め上げていく。見渡す住宅街は街の青白い無表情な街灯の光と、家々がぼんやり内緒話みたいに灯すオレンジ色の光とを交互に受け、電信柱や家々のシルエットが薄く複雑に縁取られながら切り絵の様に浮かび上がっている。
フィルターまでしっかりと。深い深い、不快な深呼吸をすると、眉だけひいて、ろくに紅もささずにボサボサの長い髪の毛も放置したまま、ブラックジョークが満載の短編ノベルの文庫とタバコと薄い財布をバッグに放り込んで、部屋を出た。バイト先のマンションの管理室に向って歩き出す。
チラチラとふらつきながら青白い光を落とす街灯の列に沿って歩く。いくつもの影が薄く浮かび上がってからつま先で消えていく。家路を急ぐ一家の大黒柱や、全うに朝から夕までの就業を終えたOLの帰路を逆走していく。ほとんどの人々が一斉に目覚め、一斉に活動し、一斉に帰るべき場所とは反対に向って。暗闇の中の煌々に向って。
透子は常に一人、そんな逆を走って向うのだ。社会に於いての最低限の規約を満たし、それぞれにある程度の安定した立場と権利を、さも当然のごとく所持しているであろうそんな多くの人々の背中を時折、言葉もなく振り返りながら。
当然であるはずのそれすら満足に満たす事も出来ないままの透子は、そんな轍の中で不安定にゆらゆらと遭難したまま、細々と逆走せざるを得なく這う様に生きている。
そんな日々がただ永遠に続く気がした。死ぬまでずっと。生きているのか死んでいるのか、どっちでもさして変わらない様な、限りなく死に近い生が。死んでいるみたいな生が。煌びやかな繁華街や美しく整備された街から離れた、薄暗くて汚い路地裏の石畳の上で、這い蹲りながらわずかばかりの小銭を拾う様な、こんな毎日がずっと続く。そしてきっとそんな現状を覆す術はきっといくらでもあるのだろう。
でも、術はいくらでもあったにしても、透子にはそんな術を行使する余力が無い。
少し以前、少ないながらも何人かは居た知人達、今ではほぼ見る事も無くなったTVの中の評論家達、
夜になれば接待娘や風俗嬢の尻ばかりに金をはたいている煩悩のくせに、少し人より人生が長いだけで優越感に浸って偉そうに諭すおっさん達、皆それぞれ口を揃えて回りくどく美しき術を説くだけ。漠然とよくわからない明日以降を、それはもう頭の下がる程に綺麗に指差してから、只、手を振って消えるだけの者達。美しく構築されたそんな事なんて粗方は解っていたんだ、いや、わからなくてもどうでもいい事だとも思ったし、だってそんな所まで追いつける様な綺麗なこれじゃなかったから。完成しているえらい私ではないのだから。
欲しいのはここの、外から鳴り響く音じゃない、答じゃない、それらを実行したり見出したりする、ここの、内の音、声、私からの力なんだ。そしてそれは誰か他から享受できるモノではないというのを知っている。自分でなんとか調達するしかないモノだと解るんだ。
しかし、現に遭難し続けている透子にとっては、這い蹲りながら小銭を集めて辛うじての延命処置を図るのが正直精一杯で、とてもその様な確固たる力や明日から先の道などを切り開いていく力が無い。あっても上手く行使できないだろう。
そういうのを外部に求めたところで、説教されるか、薄い嘘っぱちでかます愛想笑いの連続か、はたまた興味も関心もないはずの近況や自論を虚しくぶつけ合うだけか、大体がどれかになるのは目に見えている。
そこに、意義も求むるモノも見出せない。動機も感情も動かない。麻痺しているのか、本当に必要ないからなのだろうか、・・・・。
どちらにせよ多分、常時、外部と関わりあうのは無駄に思える。
嗚呼、関係していくのは無駄・・・っていうか、私に無理。
出来る限りそれらに使う力を最低限の延命処置に宛がっていかなければ、持ちこたえられない。無理やりそうすれば、ここのほんとうの中にある、超最低限の何かが磨り減ってしまう気がする。
・・・でも、何故、一体ほんとうの中にある、何を守ろうとしているのだろう。
もう物言わぬ大人しく消沈したこの薄い輪郭ですらも、薄暗い路地裏の闇に瞬時に見失いそうになってしまいそうだというのに。
黙々と歩き始めてから10分もしないうちに、環七通りのいっ歩手前の私道に面したバイト先であるマンションに着いた。大手の建設会社が各都市や都内のベッドタウンに展開している整備の行き届いた小奇麗なマンションである。夜の間中、エントランスの入り口付近には煌々とスポットライトが点いている。
大抵の部屋が1Kで、1階と最上階の14階にだけ2部屋ずつ1DKの部屋がある。
入居者はそこそこの収入のある独身のサラリーマンやOLが殆どを占め、あとは水商売等をしている女達が少々といったところであろう。
管理室の鍵を開け、明かりを点ける。建物の佇まいとは対照的な殺風景な3畳程の室内には1ドアの冷蔵庫と、エントランスに面した小さな引き窓のすぐ傍にあるデスク、非常の際に鳴る、警備会社と連携プレーをする為の電話、あとはアルミ製の棚があるだけだ。すぐさま換気扇のスイッチを入れ、昼間に在室している管理のおっさんが取り付けたのであろう座布団付きの椅子に腰掛けて、タバコをくわえ、点火。煙が空中でさ迷いつつも換気扇の取り付けられている天井の格子の中に吸い込まれていく。
タバコの量が増えたな、透子は天井の4本の蛍光灯の明かりを眺めながら、そう思った。
日本語を発する機会はごっそりと減ったが、反比例する様にタバコの消費量が増えていく。口寂しさを食で補う選択肢を、元々胃の小さい透子は選ばなかったので必然としてそうなったのだ。管理室は夜間、唯一外界であるエントランスに面した引き窓にはカーテンがひいてあるので、基本的にはあまりよろしくないのだが透子は大抵1箱分のタバコと2冊の文庫を此処で消費する。夜は長い。終わりの無い絶望の様に、黒々と深く垂れ込める。
椅子に座って仰向けに寄りかかりながら、透子がタバコをフィルターまで吸いきろうとしていた時、エントランスの自動ドアが開く音がした。ヨレヨレに疲れきった社会の中での先鋭が一人帰宅したのだろう。耳の端でその物音を聞きながら透子が持ってきた文庫を取り出そうとバックに手を伸ばした時、管理室の小さな引き窓を叩く音が聞こえた。
「来客?」珍しい展開に驚いたが、一応これもバイト、仕事のうちだ。引き戸を開ける。
「・・・どうかしましたか?」
見ると、ひょろ長くて薄い身体をして、青白い全体を持つ青年が何やら只ならぬ感じの神妙な顔つきで立っていた。と言っても、表情や目元は伸びきってざんばらな前髪のうっそうに隠れてよく確認できない。
「・・・あの、ここのどこかの部屋に若くて、髪の毛が金色で、多分短い女の人、住んでませんか?」
青年は口頭一番、不躾にそう言った。
「は・・・。金髪の女の人・・・ですか?いや、住んでる人の事はちょっと・・・」
透子が寝起き直後に極論の二者択一を迫られたみたいにおろおろとしながら、それでも訝しげに答える。
すると、青年は「そう、ですよね・・・」と言って視線を落とした。
「あの、ご用件は?」
怪しい者であれば、すぐに警備会社に連絡しなければならない。これも仕事のうちである。
「・・・いえ、あの・・・」
青年は元々伸びきった前髪の奥にある確認困難な暗い目元に更に暗い影を揺らしながら地味にどもった。
落ち着きが無い。よく見えないが明らかに動揺している眼。いや、全体的に不審だ。
怪しい。透子は瞬時にそう感じた。人が嘘をつく瞬間はかなりはっきりしている。特に男はわかりやすい。透子はそういう察しはいい方だった。知りたくもないが。
久々に微々たる正義感というポジティブ系の感情が芽生える。非力な身ではあるが、色んな感覚が麻痺っているせいか透子は恐れを忘れているらしく、ぴしゃりと
「警備のものを呼びますか?」と言った。
青年は一瞬動きを止め、ゆっくりと透子を見つめた。張り倒せる相手かどうかを吟味しているのだろうか、透子の全身を緊張の針金が縛り上げる。
沈黙していた青年は、ふっと何か魂とか何かしらのストッパーが弾かれたみたいにして遠い目をしながら透子の顔面を見たまま言った。
「・・・死ぬんです・・・」
「・・・・・は?」
何を言っているんだこの男は。他に相槌の打ちようは無かった。「は?」という言葉が通常の発言の様に透子の意識と声帯を経てからではなく、顔面から煙の様に吹き出た。呆けている透子の顔を見たまま青年は表情を変える事なく続ける。
「死ぬんです。金髪の髪の短い女が。多分・・・今日、ここで」
青年の吐息は酒臭い訳じゃなかった。酔っ払っているという訳では無さそうだ。精神障害者か?薬中毒者か?なんなんだアンタは!?
「警備の者を呼びますから!」透子がそう言って非常用の電話に手をかけようとしたその時、建物の裏手の方から「ドッ!!!!」と言う、鈍く響く様な、大きな音がした。一瞬の音だった。
青年は電話をとろうとしていた透子を瞬時に止めようとして腕を窓に突っ込みかけていたが、その音を聞いた瞬間、暗い目元の奥にある眼球を見開いて動きを止めた。3秒程空間が静寂に満ちた。
透子が眉間に皺を寄せて窓に面した引き窓からエントランスに首を出そうとゆっくり腰を上げようとしていると、青年はそれまでの神妙な面持ちから一変して、血の気の引いた様になり、半分突っ込んだ腕を戻しながら、
「多分、もういいです。間に合いませんでした」と俯いた。
「・・・あの、間に合わないって・・・?」
透子が未だ警戒しながらも、電話から手を離し、尋ねるのを聞き終わらない内に、青年はそれまで管理室とエントランスの間に湧いていた戦々恐々とした空気を吹き消す様にくるりと踵を返して入り口の自動ドアに向っていった。
「ちょ・・・」
透子はそう言うと同時に椅子から立ち上っていた、そして管理室を出て青年を追う。
青年は振り返るでもなくマンションの裏手に向って歩いていく。透子はそれに追いつくと正面に回った。
「間に合わないって、何が間に合わないんですか?」
どうしてだか、何もかもに無関心になりつつあるはずなのに、がつがつと青年に詰め寄った。あの音がした瞬間に見た青年の、まるでこの世のモノではない様な何かを見てしまいました、という妙に重力のある反応と表情がいやに引っかかっていた。
青年は透子の顔から下まで視線を上げたが、そのまま黙って透子の横を通りすぎて黙々とマンションの裏手に向った。透子は連鎖反応したみたいに青年の後に続く。
マンションの裏手は全ての部屋のバルコニーの真下にあって、整然と形の良い石畳が敷き詰められているスペースである。周囲は囲む様に植えられている植木とその根元に備え付けられているライトが煌々と点いている。青年は迷う事なくその裏手のスペースへと向う角を曲がる。透子も黙って続く。
マンションの裏手の敷地、石畳の上に女が寝ていた。口と頭部から血を吐きながら、金髪のボブカットヘアーの女が寝ていた。
「やっぱり・・・」
青年はその光景を見つめながら小さく呟いた。
状況が飲み込めないまま呆然と女の横たわる様を見ている透子が口を開く。
「死ん、でる・・・?」
「・・・死んでる。間に合わなかったんだ」
青年は表情筋を微動だにせぬままに答えた。
短髪で金髪の女が死んでいた。飛び降りたらしい。叩きつけられた女の全身は力なく石畳にへばりついている。
青年がついさっき只ならぬ雰囲気を醸し出しながら訴えた通りの惨状、女だった。
透子も青年も何も言わずに只、それを見つめていた。刻々と刻んでいく時間の確約を静かに破る様に、生ぬるい夏の夜の、名も無き一片に重く滴る「死」という事実が静かに充満している。
「救急車・・・」透子が言う。
「いや・・・警察です。」
青年はぽつりと答えると、踵を返し足早に夜闇の果てに向う。
細かい雨が降り出してきた。途端にアスファルトの湿った匂いが立ち込めてくる。
「どうして知ってたんですか・・・?」青年のあまりにも無情すぎる反応と所作に連鎖する様に、思わず聞いた。
青年は歩みを止め、背中に諦めた様な脱力感を浮かべた。
「解ってしまうんです」
「え?」
「解るんです。死ぬ人の事が」
青年はゆっくりと振り返った。雨に濡れて、余計に重たくなった伸びっぱなしの黒い髪に覆われた顔の表情は相変わらず確認困難だが、無表情とか、いやそれ以上の絶句。
絶望的な雰囲気で、極めて怜悧で青ざめた印象を醸し出す空気を発している。くたびれた灰色のTシャツから伸びる左の腕あたりは、何やら鈍く、黒っぽく汚れている。
降下の頻度を次第に増していく雨粒に気がつかないまま透子は呆然と佇み、青年を見つめいた。
「私の事も?」
口からこぼれ出ると言うのはこういう事だろうか、透子は何かの感情の笊から、抱えきれず溢れ零れた果実の様にそう発した。意図的な発言ではなかった。何かに押し出される様な衝動に駆られた。
背を向けて濡れた夜闇に溶けかけていた青年の肩がぴくりと動き、止まった。
随分まとまって落ちてきていた雨粒に濡れた黒い前髪が、青年の額にまとまってぺたりと張り付いて、顔色の悪い顔面を更に気味の悪いものにしている。纏まってぺたりとはりついた髪の間に見えた眼は一重瞼だが、眼光は鋭く、強い。ひん剥いて透子を捕らえる。
「いや、知りません。」
青年は湿った夜闇に濡れて薄まった全身の中に唯一の鋭敏さを持つ様な、鋭利な眼光を釘付ける様に透子を見ながら言った。
蛇に睨まれた蛙の様に透子は硬直してしまい、それ以上に青年に言葉をかける事はなかった。
マネキン人形の様に雨の中立ち尽くす透子に、青年は鋭利な目元だけは残して、どこかため息みたいに疲れた空気を吐きながら言葉を続けた。
「・・・すみません。巻き込んで・・・。戻りましょう。電話を貸して下さい」
連れ立って管理室に戻る。青年の挙動や発言の端々には確かに血の通った感情の断片みたいなものが感じられた。しかし、それはあくまで断片であってそれ以外の青年を形作るそのものや中心付近、青年の挙動や動作、その発信源である場所は、ぽっかりと真っ黒な空洞みたいになっていて、そこからはどうにも救いのない絶望的な空気が絶え間なく吐き出されているみたに思えた。虚無の穴とでも銘打つべきか。
そいつのせいか青年の動作や発言や印象が、例えば恐れをを知らずに平気で生きた虫の羽や足をむしりとる残忍さを残している子供、あるいは人間らしい感情を生み出す脳のどっかしらが破壊されている人間というか、青年は人間の形をした真っ黒い穴の様だった。青年の声はどこか電話の時報案内の様に機械的であった。
管理室に戻り、青年が電話で警察を呼んだ。救急車ではなく警察だけを呼んだ。淡々としながら。
透子が救急車も呼んだ方がいいと付け加えると青年は振り返る事もなく「無駄です。」と背中で言った。
程なくして警察が来た。マンションの前でパトカーが止まると平和と静寂の下で眠りにつこうとしていた住宅街からばらばらと野次馬が出てきた。皆、不安げな顔をしながら傘を片手にして遠巻きにマンションの奥の現場の方を眺めている。人々の眼球はブラウン管や液晶画面でも張られているみたいに起こった事実を鮮明に捉えようと絶え間なく光っていたが、どこか予定調和のハプニング映像でも見ているかの様な遠巻きな冷ややかさもまた携えていた。透子と青年は第一発見者と言う事で現場で一応の事情聴取は受けたが、状況が状況なだけにすぐに加害容疑ははれて解放された。透子が気がつかないうちに青年は姿を消していた。透子はそのまま管理室に戻ってバイトの定刻まで駐在したが、あまりにも真平らで地味な日常に突然起きた出来事と青年の印象が、まるですきっ腹にテキーラをストレートで流し込んだみたいに強烈で、いつもの様に暢気に読書なんかする気にもなれず、延々と半分放心のままタバコをくわえて過ごした。
それからはしばらくまた不変で不毛な反復動作の連続の日常が続いた。7日目、透子は終日休みだった。
というのに前日、というか今朝帰宅してから随分と酒を飲んだらしく目が覚めたのは午後3時をまわってからだった。酷い頭痛、吐き気、倦怠感。透子はよく酒を飲む方だったし、週に1日だけバーで働いていた事もあったからそこそこ普通の女の子以上にアルコールに対する免疫はあったが、これだけはどんなに免疫が出来ても回避できない不快みたいだ。多分免疫とかの問題じゃないのだろう。不味くなってくるまで酒を飲むかどうかの問題だ。無論、狭い1Kの部屋の中央にある小さなテーブルの上には缶ビールの抜け殻が犇めきあっていた。透子はそれらを横目に見て更に吐き気を増しながら、ベッドから這い出てショーケースから下着とバスタオルを掘り出すとそのままシャワーを浴びた。かなり熱めの湯を浴びた。湯の一粒一粒が熱い針みたいになって水圧とタッグを組んで肌に激突してくる。はっきり言って痛い。でも熱くないと駄目なのだ。嫌なのだ。
同時に身体全体を覆いつくしている倦怠感や吐き気やなんかのドロっとした物体が熱い湯に剥がされて、細胞一つ一つが垂れ流しているゲロと一緒に排水溝に落ちていく。しかし真ん中にある吐き気と痛みと不快の元凶は以前として透子の中で強かに分厚く生き延びている。全く回復しない身体から滴る水滴を充分に拭かないままバスルームから出ると、頭からタオルを被ったままタバコを吸う。不味い。そうこうして最悪の状態のまま、大事をとる訳でもなく更に不快に自らを追い詰め居ていくと、深い霧の中でだんだん視界が開ける様にその状態に慣れてくる。回復とか改善とか、消して良い方に向くんじゃない。最悪の体調を最悪と感じなくなるまでに、ただ慣れてくるだけだ。麻痺してくるだけだ。生物の適応能力とは本当におぞましいものである。しかし、果たしてそこまでして適応する意味があるのか、そんな労力を捻り出してまで生き延びる価値があるのだろうか、透子にはよくわからない。っつうか疑問。
まだ濡れた髪のまま着替える。スキニータイプのジーンズが乾ききらない肌に支えて少し履きづらい。トップに黒いベルベットっつぽい生地で出来たミニのワンピースを着て麻の薄いカーディガンを羽織る。眉とラインだけの簡単な化粧を済ませるとヒールの低い黒いサンダルを履いて出かける。週に一日の終日オフ、透子は駅前の大きな本屋まで出かける習慣になっているのだ。
ほぼ西に傾きかけている陽の光が、闇と蛍光灯の青白い光にばかり慣れた目に容赦なく刺さる。
夏の日は長い。そして夕方も長い。伸びかけた影をひきずりながら駅に向う。15分程歩くと細い道路の向こうに大きな通りと商店が立ち並ぶ駅前が見えた。早めの帰宅をする人や学生、犬を連れた老人、子連れの主婦等、個々にそれぞれの世界を持つ様々な人々が色鮮やかに行き交っている。
淡いオレンジ色の西日に染まった賑やかな駅前の商店街を足早に過ぎると、商店街の奥にある大きな書店に入った。書店は商店街の中ではそこそこに大きなキャパを持つ店で、古本や画材や文具等の品々も販売している多機能さである。無論、透子の目的は本である。透子は本ばかり読んでいた。透子の部屋には一応テレビはあるのだがほぼスイッチを入れる事はなく、今ではコンセントが抜かれていてその切っ先には薄く埃がかぶっている。パソコンも遠い昔に知人から貰ったデスクトップのが一台あるのだが何の開拓もせずに部屋の隅で粗大ゴミみたいに場所だけをとっている。本だけが着実に増えていき、今ではその塊が一個の家具並みのスペースを占めている。特別本が好きとかいう訳でもなかったのだが、何も言わずに余計な意識をトばすには本が一番マシなアイテムなのだ。
書店の文庫コーナーに向って店内を進んでいると、少し手前にある文具コーナーで鉛筆を手にとってじっと佇んでいる後姿が居た。
あの青年だった。
独特の無機質さと妙な空気を醸し出しているのですぐに判った。思わずその後姿の前で足が止まってしまった。青年はすぐにその気配に気がつくと振り返り、まともに両目が見えないくらいに伸びすぎた黒い前髪の奥にある目を見開いた。「こないだの・・・」こぼれ出たみたいに青年は言った。青年の目には相変わらす生命力とか光とか、総じてポジティブな要素はまるでないが、何故か眼中に捉えたものに太い釘でも刺すみたいな妙な重力がある。その重力に逆らえず、透子は反射的に「あ、どうも」と答えた。まだ平日の日没前で、普通に勤めて社会生活を送っている人間ならばありえない格好を青年はしている。左膝のあたりに穴が開いたボロいジーンズ、伸びて色落ちした灰色のTシャツ。
「何、されているんですか?」青年の正体になんとなく興味が湧いたので問う。
「あ・・・鉛筆小さくなっちゃって。」青年は素直に答える。
いや、そうじゃなくて・・・。
透子が間をおいて「・・・はあ、」と言いかけると青年はまだ言葉を続けた。
「スケッチとかデッサンしてるんです、趣味で。ほぼ一日ずっとやってるからすぐなくなっちゃうんですよ。」
そう言うと青年は少しだけ笑って見せた。青年が笑ったのを見たのは初めてだった。でも、微笑みというか、曲がる方向とは逆に無理やり蝶番を押し倒して「ギイギイ」という不快な音がしそうな不器用な笑みだった。
気持ち悪い。と思った。
しかし、・・・
「絵描くんですか・・・」・・・ちょっと意外だった。
あんな無機質で機械的な空気を吐き出している虚無の穴みたいな人間が絵とか、芸術とか、そんな事に興味があったとは。そうか、腕の黒ずみは鉛の跡か。
まあ・・・、芸術家とかアート系の人間はむしろちょっと変わり者が多い。普段は死体みたいな目をしている奴がギターとか弾かせるととんでもない高速タッピングをかましたりする。周囲はそのギャップにあっとなる訳だ。
透子はそんな青年の不思議な空気に駆りたたされた。対人にそんな欲求を持つ事はかなり久しぶりである。
透子はいつの間にか青年の隣に立って深緑色の柄の鉛筆がたくさん積まれている棚を見ていた。
「時間ありますか?」突然、青年が呟いた。
意外な質問に青年の顔へ振り向くと、先ほどまでの微々たる笑みは消えていて、青年はまたいつもの様な暗くて重たい重力を携えた目もとをしていた。透子は連鎖反応みたいに「はい」と答えていた。
「移動しましょう」
青年は不動の表情のまま出口に向った。透子は文庫本のコーナーに行き着かないままに青年と書店を出た。
メイン通りからかなり外れた一方通行の道の奥の喫茶店に入った。銅製の古びた看板には「BLUE BIRD」と記されている。
青年が言うには此処の方が安心なのだという。新参者を拒むみたいなガラス窓埃っぽさと、木製の重たいドア。何処かあのリサイクルショップみたいでもある。店内にはカウンターが6席、テーブルが2つ、ピンク色の電話がレジ横にあって、カウンター内にはウイスキーのボトルが、年々も時が止まっているみたいに静かに並んでいる。客は無い。
透子と青年は一番奥にあるテーブル席に着くと、カウンターで新聞を読んでいた中年で無愛想な無精髭顔の店のマスターが注文を採りに来た。「何にしますか?」青年は透子の注文だけをマスターに採らせた。間もなくして透子が頼んだアイスコーヒーとホットコーヒー、ミルクポットが出てきた。青年はホットコーヒーに大量にミルクを入れながら「こないだの事、誰かに話したりとかしました?」と不躾に聞いてきた。
タバコに手をかけていた透子は多少ドキリとしたが、無論完璧に人と話をするという事はおろか、友人ともろくに接触しない毎日なので「いえ」と首を振った。青年はそれを見ると視線を下げてコーヒーを一口啜って言った。
「あの日僕が言った事、馬